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写真家・尾崎大輔のblog


by daisukeozaki
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アウシュヴィッツ強制収容所

旅行は小さい頃から嫌いである。カメラマンになった今も変わらない。人間をテーマに写真を撮っていて、どこかに旅に行って写真を撮りたいというのは今まで一度もない。そんな私が死ぬまでに行きたい所、国として挙げていたのが、ポーランドであり、アウシュヴィッツであった。念願が今回叶ったわけである。私にとってそこは世界の果てであり、神が存在しない場所であった。アウシュヴィッツに人間の“何か”を撮りにいったわけである。写真を撮るということは現実と抜き差しならぬ対面をしなければいけない。実際アウシュヴィッツに行った時に自分自身がどう感じるのか知りたかった。


フランクルの「夜と霧」を初めに読んだのはいつ頃だったであろう。再読は何度もした。「良き人は誰も帰って来なかった。」という文章が綴られるこの本の中で私が一番興味を引いたのは、どのような人が最後まで生き残ったかであった。生き残った人の条件として、フランクルが言うには肉体的条件は含まれていなかった。その条件とは愛を感じる人間、夢を持てる人間、そして美を見つけ出せる人間というものだった。最初の2つの項目は創造できそうなものであるが、アウシュヴィッツの極限状態の中で美を見出すとはどのようなものであるのか。本の中では夕焼けを見て、囚人が「なんて世界は美しいのだ。」と涙する描写があるのだが、そこで美を見出せるのかが興味があった。
私が行ったのは丁度夏の終わりで、朝と日が落ちる頃には少し肌寒くなり、上着が必要な時期だったが、感じたのは光がとても綺麗であるということ。ゴッホが昔、日本の浮世絵の影がないことを見て、日本は神の国であると思ったのとは逆に、日本と比べた時にヨーロッパのカラッとした日差しに映る木々の影は絶妙であった。その気はSSに命令され、ユダヤ人達が70年近く前に植えた木々が成長したものだが、その木々の光と影のコントラストが私に何かを感じさせた。


神の存在に疑問をもったのは、ホロコーストの話を聞いたときからである。なぜ神はこのような悲惨な世界を作り出すのかと。信仰深かったエリ・ヴィーゼルは「夜」の中で、天使のような少年が公開処刑で首を吊っている時に、体が軽いために30分近く苦しんでいる姿を見た時に神を捨てた。ライプニッツは神は実存としてのみ悪をもたず、全ての選択肢の中から最善の答えとしてこの世を創造しているとしているが、創造した世界の中にアウシュヴィッツが含まれるのならば、神はいないであろうと思っていた。
他人の身代わりになり餓死刑になったコルベ神父の地下の独房などがほぼそのままの状態で残っていた。その隣にも餓死させたり、窒息させたりする独房が続いていくのだが、その中で囚人が最後に壁に残した落書きがあった。そのほとんどがイエスなどの神の描写であった。神が存在しないと私が思っていた場所で“神が存在していた”のである。もし自分が彼らのような状況になった場合、人間の愚かさを嘆かないであろうか。人間で生まれてきた自分を憎まないであろうか。最後の最後で憎しみの中で死んでいかないであろうか。神を見ることができたらば、人間への憎しみは消えるのであろうか。神をなぜ私は信じることができないのであろうか。


ガス室に入ったときの描写だけは適切な言葉が思い浮かばない。当時のままではないと知っていたが、入り口をくぐり、奥の部屋に入ったときのあの全身にくる“重さ”だけは絶対に一生忘れることはできない。


ある哲学者が考えるとは受動の行為であると言っていた。それは能動的ではなく、何かの現実に遭遇してそこで現実から考えさせられるという受動行為であると。
アウシュヴィッツはその場所自体が、「人間よ、考えよ。」と自ら発しつづけているそんな場所であった。
by daisukeozaki | 2011-09-30 00:31 | Comments(0)