写真家・尾崎大輔のblog


by daisukeozaki
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カテゴリ:本( 26 )

今年はプライベートと仕事ともに忙しくほとんど映画を見に行けてない。。。

ただ、本はいつも通り電車の中や撮影の合間で読んでいるので、最近読んだ本の中で興味深かった本を一冊紹介します。写真は献本も含め、最近読んだ本です。

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1冊だけ紹介すると、
「宅間守 精神鑑定書」 岡江晃・著 亜紀書房

帯文にある通り、2001年大阪の池田小学校で児童、教諭を殺傷した宅間守の精神鑑定を行った精神科医の初著書。大阪地方裁判所に提出された精神鑑定書を、ほぼそのまま収載している本。

刑法39条には心神喪失者の行為は罰しない、また、心身耗弱者の行為はその刑を減軽するとある。ただ、実際にこの法律が適用され、無罪もしくは減刑になることは極めて少ない。
私も同感だが、被害者の家族の身になれば、自分の身内を殺した犯罪者がどのような理由であれ、国家による罰を受けてほしいと思うのは当然であるからだ。
そのため、死刑になるような重罪の場合、ほとんどこの法律が適用されたことはない。

それをふまえた上で本書を読むと、私を含め多くの人がこの宅間守は事件を起こす前から一般生活を送れるような正常者ではないと感じると思う。著書に書かれている通り、おそらくなんらかの精神障害であろう。
ただ、この精神鑑定を行った精神科医もそれが何なのか、またどのような精神病からくるものかが判断出来ないため、手の施しようがないといった状態である。

本文をそのまま抜粋すると、
「宅間守の示す精神症状は、日常臨床で経験したどの症例にも該当しないほど極めて稀であり、・・・バラバラな症状と非定型的な症状である。」
そして、鑑定書主文の初めにはこう記されている。
「被告人宅間守には、いずれにも分類出来ない特異な心理的発達障害があったと考えられる。」

問題はこの事件を起こす前に、何度も様々な精神科に通院しており、入院まで行っている。それぞれの段階でなぜ宅間守が事件を起こさないような状態に持っていくことができなかったのか?
アメリカでは自分の体内に流れる血が凝固してしまうため、動物を殺し、その血を体に塗りたくっていた精神病院の患者を退院させて、その人間が後に猟奇殺人を犯すという事例もある。
著者の精神科医も語るようにそれ自体は日本の精神医療の汚点であると思われる。

この本を読んで、宅間守に反省の色は全くないように思われるし、私達とは違う善悪の判断を有している。
アメリカで以前、死刑を受ける権利を訴えた殺人者がいたが、この宅間守を早急に死刑にしたことが果たして良かったのか、疑問に残る。

レッサーパンダ事件もおそらく自閉症と思われる方が起こした殺人で障害者が殺人を起こした場合、人権団体の顔色を伺うことから、マスメディアは一斉に報道規制をかける。私達と違った基準で生きている人間が罪を犯した場合、そのまま私達社会の方を当てることがその犯罪者に罪の意識を感じさせることになるのか。
刑事司法と精神医療との境界線を引くことの難しさを物語った一冊でした。



一応、他に読んだ本は
「全体主義の起源3」 ハンナ・アーレント・著
「血の逆転」 ジェームズ・ワトソンなどのインタビュー本
「<ひと>の現象学」 鷲田清一・著
「全盲の僕が弁護士になった理由」 大胡田誠・著
「聖母の贈り物」 ウィリアム・トレヴァー・著
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by daisukeozaki | 2013-08-25 19:26 | | Comments(0)
「黄金の少年、エメラルドの少女」 イーユン・リー

素晴らしい短編集。

前作の短編集「千年の祈り」にあった中国、もしくは文化大革命などの私達個人がどうしようもできない大きなうねりの中で生きていく人間達を描いていた。
今回の「黄金の少年、エメラルドの少女」ではそういった大きな潮流の中で生きていく人間描写ではないが、何か少し非日常的なことが起き、それによって現実を見つめ直す人間が描かれている。そして、その非日常は誰にでも起こりうるようなものばかり。

娘を失い、年齢からも新しい子どもをあきらめていた夫婦が中国で代理母をお金で雇い、子どもを作ろうとする「獄」、兵役の中で自分の今までの人生と周囲の人間関係を見つめていく「優しさ」など全9編を収録。

彼女がある小説家を評してインタビューでこのように答えている。
「人は他者のことを想像できなくてはいけません。作家だけではありません。読者にとって、人間にとって他者を想像出来ることは重要です。・・・・彼は書いて何かを訴えているわけではありません。観察者なのです。・・・・ただ人間にとても興味があるだけです。私も同じように興味があり、同じように人間性の持つ謎に関心があります。だからこそ小説を書くのです」
こりゃ、僕が好きになるっすわ。 

現代版チェーホフ!!素晴らしい!!


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by daisukeozaki | 2013-03-20 19:16 | | Comments(0)
「捧げる 灰野敬二の世界」 灰野敬二 他

現代音楽のカリスマ的ミュージシャンのドキュメンタリー本というか、インタビューとディスコグラフィの本。
音楽は全く疎く、灰野敬二とかボアダムズとか名前は聞くので、少し音楽も聴いたことあるが、全く良さは分からず。

そういう状態なので、ジム・オルーク、佐々木敦、後飯塚僚の三名と灰野敬二がそれぞれ対談しているのだが、ジム・オルークとの対談で出てくる固有名詞の約9割が全く分からなかった。

もの作りをやっているものとしては佐々木敦の対談がおもしろいかも。

灰野敬二の話で興味深かったのは二つあり、一つは人間だけが他の動物と違って芸術活動をしているのではないか、ということ。有用性を考えれば、芸術なんてなくていいのに、なぜ人間は行い続けるのかという疑問。
あと、芸術家でなく、魔術師になりたいと言っている点。芸術家は自分作品の起因を説明しなければいけないのに対し、魔術師はその起因を「ステッキをふっただけ」と答えればすむから。同じようなことを確かコクトーも言っていたと思う。

後飯塚僚との対談の所で写真集「無」の被写体にもなった工藤さんの名前も出てきて、よくよく調べてみると工藤さんと灰野敬二が昔、共演をしていたという事実を知り、なんか繋がってるなぁと思う本でした。

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by daisukeozaki | 2013-02-27 12:54 | | Comments(0)
この短編集で新人作家としてはきわめて異例なピュリツァー賞を受賞。
ただ、私としてはいい短編集だとは思うが。。。。

ある子どもを死産で失った夫婦が、停電の夜に蠟燭の下でお互いの秘密を語り合う「停電の夜に」。今の自分の状況から感情移入しやすい内容の為かもしれないが、個人的には一番良かった。夫婦は幸せを分かち合うのではなく、苦しみを共に乗り越えるためとどっかで聞いたことがあるけど、この夫婦だけは幸せになってほしいなぁとかなり感情移入してしまった。

「病気の通訳」、「三番目で最後の大陸」なども良かったけど、インド人である必然性をあまり感じなかった。インド独自の文化や生活習慣の描写もでてくるのであるが、昔はそこが文化的差異として新鮮だったかもしれないけど、それ以上に何か根底に流れている自分自身の出生による大きい思想的なものは感じなかった。

同じように文化的なダブルバインドを感じる中国からの移民のイーユン・リーの方がより大きな何かを感じさせる作家なので、イーユン・リーの方が私はおすすめかも。

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by daisukeozaki | 2013-02-12 17:51 | | Comments(0)
なんか話題になってる作家のものを読みたいなと思って、購入。さらば雑司ヶ谷で有名な著者だけど、元々著者がコアマガジンにいたので、そのときの経験が元になってる小説っぽいので、こっちを購入。
あるエロ本雑誌の編集者達の実話を元にしたという話。

感想は後回しにして、エロ雑誌というかヤクザ、エロ、風俗、芸能人の裏情報とか扱う実話誌の編集部と仲が良いので、読みながらのその人達の顔が何度も頭をよぎった。

前に私以外が全員実話誌の編集者というメンツでOLとの合コンを設定したことがある。生涯で一番印象に残る合コンだったかも。
全員が探偵と嘘をついていて、合コンをセッティングした私の友達だけが編集者だと知っていた。その友達が私と隣の編集者に「最近、どういう人と仕事で会った?」と質問に「有名芸能人の乱交パーティをセッティングしているAV女優」と答えるわけにもいかず、さらに編集者に対して「取材で印象に残った取材ってある?」との質問にはその編集者も「一番最初にした取材が、都内最高齢風俗嬢とヤるっていう取材で、探し出した風俗嬢は鴬谷の風俗嬢でプロフィールが72歳だったけど、実年齢は76歳で4つサバ読んでたわ。テクはまんざらでもなかったっすよ。」と答えるわけにもいかず、適当に答えている編集者を見て、実際の話を知っている私は隣でゲラゲラ笑い転げていた。
その編集者が「最近、誕生日だったんすよ。」というと、女性から「何してたの?」と聞かれてて、無難に答えてたけど、実際は誕生日の前日からゴールデン街で飲んでて、先輩に痴女ナイトするハプ○○○バーが近くにあると言われ、明日誕生日だからおごってやると言われ、そこで数人の男と一緒に裸にされ、ち○こ以外をラップでぐるぐるまきにされる。そこに裸の女性がたくさん出てきて、しゃぶられることになるのだけど、その人のところにはなぜか女装した男性が来てしゃぶることになり、ラップでぐるぐるまきにされているので、手も足も出せず、なすがままに。そのまま、日付が変わり誕生日。誕生日当日は知り合いになった人が女装子のエロビデオの撮影をするということで、現場見学。そこでも「おまえ、男優やれ」といわれ、カツラをかぶった不細工なおっちゃんにまたもやち○こをなめられるというハチャメチャな誕生日を送ったというのは初対面の女性にはまさか言えるはずもない。
この合コンはホントある意味でおもしろかった。
他にも色々な話はありすぎるけど、話始めるときりがない。最近、謝罪で坊主にするのが流行っているらしいけど、この雑誌の編集長も含め、5人中4人の編集者が謝罪で坊主になっている時を見たことがある。
「最近、おもしろかったことあるっすか?」と聞くと、「いや〜、特に」と答えた後、数分後に「そういうとパナウェーブ研究所に行ってきたっすよ」といった感じで、パナウェーブ研究所に行ったことがたいしたことではないらしい。
私はこの方達を先生と呼んでます。この人達はホントすごい。

そういうリアルなおもしろい出版社の編集者を知っているだけにこの本の内容が普通と思えてくる。このエロスとヴァイオレンスを普通と思う私がちょっと変わっているかもしれないが。テンポは良くすいすい読めてしまう。エロやヴァイオレンスの描写も多々あるがまぁ平凡。やっている内容が奇をてらっているかもしれないけど、リアリティとしてさらにドキツいエロの話を聞いている私としてはよくある話かなと思ってしまう。ここでは本当に書けないけど、この前も話を聞いていて、あぁそうやって人が死ぬんだぁと思ってしまった。
エロの描写とかに特徴があればよいけど、ヘンリー・ミラーとかジャン・ジュネとか好きなだけにそれと否が応でも比べてしまう。村上龍の「限りなく透明に近いブルー」や花村萬月の「ゲルマニウムの夜」のエロやヴァイオレンス描写の方がまだ全然よかった。

ということで、この本を読むぐらいならば、私とその編集者達と一緒に飲んだ方が絶対に面白いと思います!!


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by daisukeozaki | 2013-02-01 21:36 | | Comments(2)
写真評論家の竹内万里子さんから尾崎さんにとって、いい社交の場となればとあるイベントを紹介され、参加した。
行ったのはいいのだが、結局、写真家の細江英公さん、伊奈英次さん、大西みつぐさん、後藤茂雄さん、飯沢耕太郎さん、町口覚さん、PGIの高橋さん、In-betweenとかの編集などをしているキュレターの菊田さん、ガーディアンガーデンの菅沼さん、写真協会の大平さんなど他にも偉いさんがたくさんいたと思うが、その前で自分の作品をプレゼンすることとなってしまった。写真集とか出しているので、ほとんどの人は写真自体を知っていてくれていたので楽は楽だったけど、公募展には一度も出品したことないので、これだけ一度に写真関係者にプレゼンするのは初めてだった。
写真をやっている人はこんな機会またとないと思うのか、あるいは結局ごちゃごちゃいわれるだけでしょと思うのかわからないけど、一応終わった。途中、写真集の「写真は私たちの記憶を記録できるのか?」で写真は記憶を記録できるかどうかということで、細江さんと飯沢さんが言いあいにもなっていておもしかったけど、思ったのは私自身がやはり自分の作品を言語化するのが下手糞すぎるということ。
今後色々とこういう機会も増えてくるので、最低限自分の写真を語れなくてはと思い、噂にもなっていたので、勉強のため志賀理江子の螺旋海岸を購入し、読了。

一般の方にとっての読み物としてはぼちぼちかなと思うけど、写真をやっている人にとってある箇所とかは必読とも思う。これだけ地域に根ざして、コミュニティに割って入っていくのを知り、写真からのイメージで志賀理江子氏という感じから、志賀ちゃんというイメージにこの本を読んで変わった。

全編を通して被写体との関わり合いに多くの部分を割いているのを見ると、やはり写真家なので同じだなぁとすごく感じた。ただ、私とは違って、彼女の中にある「イメージ」が強固であるため、被写体からもちろん影響は受けるがその「イメージ」自体が根本から変容しない。これが多くの今までの写真家と違う部分であろう。写真家は外部の「イメージ」に順応し、それをおのおのの見方から写真で切り取る。そのため、写真を視覚的に見た場合、外部の「イメージ」が写真上の「イメージ」として大半のウエイトをしめざるおえない。これが今までの古典的写真であり、私の写真もその典型である。
しかし、彼女の写真はそれとは違い、外部の「イメージ」を一度自分の「身体」取り込み、咀嚼し、再構築を行い、写真に定着させる。そのため、写真上での視覚的要素のウエイトの多くが彼女の「身体」から生じた「イメージ」におかれる。

今までも同じようにイメージを具現化する為に写真を用いる写真家は多くいたのであろうが、なぜ彼女の写真がクローズアップされるようになったかと思うと、この本の中で竹内さんも言っているように写真と距離の問題だと思う。
写真自体は必ず距離というものが存在し、それを顕著に表出してしまうものでもある。被写体と撮影者の間には必ずカメラが介在するわけである。
そして私も彼女も同じであるが、写真を撮るまでに被写体となるであろう人達との距離を時間をかけて詰めていく。いつも思うに、この距離を詰めていく作業は被写体との距離を縮めるだけでなく、撮影者の内部との距離をも縮めるのである。それによって、私の場合は世界の見方が変わるわけであるし、彼女はより自分の内側の「イメージ」をつかめることになるのであろう。
また、その距離を詰めるという作業に置いて、自分の内側を強烈に揺さぶる体験もするわけである。彼女の場合はそれが震災であったのであろう。写真家にとって大事なことは考えることではなく、考えさせられるものに出会うことであると思うが、それが震災という大きすぎる体験だったのであろう。写真家の齋藤陽道さんが彼女の写真を「震災のよって脱皮された写真」と言っていたこともうなづける。

この本で「身体」という言葉が何度も出てくるが、撮影者にとって、写真はどこまでこの身体にウエイトを置き、どこまで視覚に比重をおいているのか興味がある。なぜなら、視覚障害者の写真において、必ず一定段階で当たり前かもしれないが、写真に個性が出てくる。鷲田清一さんの好きなメルロ=ポンティではないが、写真も結局は視覚から生じたものではなく、身体から生じたものと感じることもおおいからである。
また、彼女が多用する「イメージ」という言葉。私はアールブリュット/アウトサイダーアートと関わることも多いので、そういう点からも彼女の写真に興味は持っている。
今までも写真療法やアールブリュットの写真をいう分野を色々と試みては観たが、ある一定のところまで「イメージ」として掘り下げれるが、それより深化させることはかなり難しい。例を挙げると写真療法として適用出来た症例などを見ると、神経症患者のみで、統合失調症など個人の実存の根源に関わっていくような病気などには適応出来ないという。やはり絵など無から有を生み出す芸術の方が内部の「イメージ」の具現化はしやすいのかもしれない。また、先日読んだピダハン族は写真を見せてもそこに何が写っているのか全く認識出来ない。訓練によって認識出来るようになるのだが、結局写真などは文化的に成熟した人間でないと認識することすら出来ないのである。

そのように考えた時、「身体」から「イメージ」を抽出し写真に定着させるという彼女の写真が今後どこまでいけるのか非常に興味をもつ。上記のようば例も結局写真自体が歴史の浅い文化であるため、今後どのようになっていくかはわからないし、今のところそうであるというだけであって、彼女のような写真家があたらしい境地を開拓してくれるかもしれないのである。
1枚の写真としての彼女の写真は今の段階はそれほど興味はないが、仙台のメディアテークのような曼荼羅みたいな展示が今後どのようになっていくかというのは興味がある。既存の写真集という体裁で彼女の写真を見てもそこまで関心をもつことはないかもしれない。

彼女の写真は視覚的に強い写真であるので、それに写し出された「イメージ」の説明としての彼女の言葉はいまいちだったけど、今後注目の写真家として一読の価値は無きにしも非ずです。

写真は紙の包装を破った後なので、実際店頭においてあるものは写真が印刷された放送にくるまっています。赤々舎のHPやアマゾンで確認して下さい。


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by daisukeozaki | 2013-01-31 19:24 | | Comments(0)
現代で一番好きな小説家はと聞かれたら、イーユン・リーと答えると思う。
それぐらいこの作家はすばらしい。
この長編小説も良かった。1点登場人物が多いので、最初少し入りにくいという難点はあるが、初の長編小説でこのレベルならば十分っす。

話はある村の一時代の話。ある女性が紅衛兵として文化大革命の運動に参加していた。文革後は文革自体を避難し、政治犯として囚われ、無実の罪を着せられ、処刑される。旧友の無実罪を知る同級生が幸福な家庭を捨て、抗議運動を起こしていくといった内容。

書きたいことはたくさんあるけど、長くなりそうなので、感想としては問題の大小はあれ、今日本では原発の問題がある。私も反原発派であるが、例えば、現政権は原発維持の立場で、もしこれで大地震が起った場合、今の福島と同じような状況になってしまう地域もでてくるかもしれない。その時、私達は心のどこかで、ざまあみろ、ほら言った通りだと思ってしまう部分はあるのではないだろうか。大変な思いをしている人が多くいるにもかかわらず。

この本の中ではイデオロギーのために生き、人生を翻弄された数多くの人達が登場する。この本の中では上記のような善悪では測りきれない登場人物の心の複雑さがよく描写されている。

この作家の著書はハズレはない!!
最新作短編集の「黄金の少年、エメラルドの少女」も購入済みなので、楽しみに読みます。


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by daisukeozaki | 2013-01-29 19:05 | | Comments(0)
素晴らしい本。「ヤノマミ」の情報量をさらに増やしたような本。その分、ストーリー展開はなくなるが、それを十分に補う情報量。

著者のダニエルは宣教師としてアマゾンの奥地のピダハン族にキリスト教を布教しよう彼らと一緒に生活を共にする。しかし、あまりにも文明社会とは違う生活をしているピダハン族に衝撃を受け、無神論者となり、そのまま生活をともにするのである。

ピダハンがなぜ今注目を浴びているかというと、「生成文法」という人間には普遍的で生得的な言語の根幹があると提唱するチョムスキーの理論が覆されそうな言語文化をもっているためである。
前半は彼らの生活習慣を中心に書かれており、後半はその独特の言語について書かれている。
内容を簡単に羅列すると、

・「こんにちは」、「すみません」「ありがとう」、「すみません」などの善意、敬意を表す言葉がない。全て行動で示す。

・赤、青、黄など色を表す言葉がない。緑だったら「まだ熟していない」という風に表現する。右や左を表す言葉がない。

・食べ物というものがそれほど重要視されていない。空腹は自分を鍛えるいい方法だと考えており、三日間ほとんど休みなしで踊り続けることもある。食料を保存する方法もない。

・将来を気に病んだりしないことが文化的な価値。しかし、だからといって怠惰なのではない。じつによく働く。

・儀式らしい行動がない。死んだ人物は埋葬されるが、特に儀式と呼べる行動はない。

・親類縁者を表す語(例えば、いとこ)が少ないので、血縁を基盤とした社会的制限も希薄になる。「いとこ」を表す言葉がないため、予想通りいとことの婚姻には制限がない。近親相姦は普通避ける傾向があるが、ピダハンの場合、ふた親とも同じ間柄や親や子、祖父母や孫など、禁忌の範囲がごくせまい。

・結婚の制度はあるが、離婚に対する後ろめたさはなく、比較的簡単に夫婦別れをすること、踊りや歌に乗じて乱交すること、思春期からあまりためらいもなく性行為を試している。以上のことを考えると多くのピダハンが多数のピダハンと性交を行っており、同じ町内に住むほとんどの隣人と性交渉があり、社会全体がそのことを善悪の基準で見るのではなく、たんにありきたりの人生のひとこまと見なしているような社会。

・集団的意識は強いのだが、他の村人に対して何かを命じるのは親子の関係であってもきわめて稀である。

・ものを数えたり、計算したりしない。数自体が存在しない。

・人が人生の区切りごとに同じ人間でなくなり、名前も変わってしまう。

・リカージョンがない。リカージョンとは簡単にいうと関係詞節(「ダンが買ってきた」針)みたいなもの。チョムスキーが提唱し、これによって有限である言葉の世界が無限へと変わることが可能になる。

・絵や写真など二次元のものは解読出来ない。写真を渡されると横向きにしたりさかさまにしたり、ここにはいったい何が見えるはずなのかと尋ねてきたりする。

上記にあげたのは本の一部でまだまだ彼ら独特の習慣、言語のことが書かれている。

なぜこのような文化が今まで生き残っているかというと、彼らは西洋文化をよいと思っていない。なので、西洋文化を受け入れていない。比較をしているというよりも、今の自分達の文化で十分満足しているのだ。個性や創造性を私達に必要とする文化はどれだけ精神的貧しさを含んでいるのか。

それを十分感じる名著。超超超おすすめ!!!!!


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by daisukeozaki | 2013-01-23 21:42 | | Comments(0)

「芸術実行犯」 Chim↑Pom

アートの定義とは何であろう。それは十人十色である事は間違いない。
ただ、その一つの定義として、日常を揺るがし、日常を疑わせ、日常を気づかせることであると彼らは言う。平和の中で平和に気づく、それはなかなか難しい事なのだ。
彼らは社会的問題に対して、曲がりなりにも「答える」のではなく、「応え」てきたのであろう。
発表の場は美術館という枠の中でとどまるのではなく、公共空間の中でも最近では行っている。美術館では「謎に会うぞ」と心の準備はできているが公共空間ではそうではない。赤瀬川原平の言葉を引き、駅員や通行人や警官にもアートを見せたいというのが根本的な考えとしてあるからだ。

Chim↑Pom自体の評価はこの本を読む前にかなり狙っている感があって、どうも取っ付きにくかったが、本の中で共感する部分も多々あり、より身近に感じるようになった。

アーティストは「名乗る」より「やる」ものというのもおっしゃる通り。
本当にごく稀に学生さんなどから写真家になりたいのですが、写真を見てもらえませんかと連絡が来る。こんな私でも勇気を出してそういって見せにきてくれるのだから、一度も断った事はないが、いつも「写真家になるのは簡単だけど、写真家として死ぬことは大変なことだし、それを考えた方がいいかも」と話している。

この本の後半部分はChim↑Pomと同じような活動をしている。海外のアーティストを紹介している。それをアートといっていいのかどうかはわからないけど、面白いのでいくつか動画サイトのリンクを貼付けておきます。

バンクシーという覆面グラフティーアーティスト。
最初のリンクが彼の作成したドキュメンテリー映画。ものすごくおもしろいので、芸術に興味がある人は必見の映画と思います。2つ目のリンクはバンクシーが作ったシンプソンズのオープニング。これにOKを出すシンプソンズサイドを含め、すごすぎ。サザエさんとかちびまる子ちゃんとかでこれをやったらと考えてみる凄まじい。
http://www.youtube.com/watch?v=nBBe-kx_ODo
http://www.youtube.com/watch?v=DX1iplQQJTo

Remi Gaillardという人で、公道でリアルマリオカートをやってみるというもの。面白し。
http://www.youtube.com/watch?v=MytfhzcSF-Y

Improv Everywhereというアーティスト集団。このイベントは多くの人を集めて、地下鉄にパンツを脱いで下半身丸出しの状態で乗車してもらうというパフォーマンス。他にも色々とやっている集団。
http://www.youtube.com/watch?v=aSv0jVfPhTw


本自体は読むと創作活動をしている人は非常にテンションがあがる内容だと思うので、気になる人は読んでみては。

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by daisukeozaki | 2013-01-14 22:06 | | Comments(0)
ぼくには数字が風景に見える ダニエル・タメット

数字が風景のように見え、詩人が言葉を選ぶと時のように、ある数の組み合わせが他に比べてはるかに美しく見えるというサヴァン症候群の著者。
サヴァン症候群とは高度自閉症であり、アインシュタインやエジソンもサヴァン症候群ではなかったのかと言われている。
数字に色や風景を感じたり、他の感覚が反応してしまう事を共感覚と呼ばれている。ただ、この共感覚は特別な感覚なのかというとそういうわけではない。
例えば、私達は「楽しい」と聞いた時、「上昇」に近いイメージをもつし、「悲しい」と聞けば、逆に「下降」のイメージを持つ。共感覚の人はこのイメージがさらに強烈になるのである。
創作活動をしている人達は一般の人よりも7倍近く共感覚の人がいると言われている。詩人のランボーなどはその典型であろう。
全体を通して、著者がどのように生きてきたのかが描かれている。普段、自閉症の人達と接する機会が多いので、あぁ同じ世界を感じているのだと思う部分は多かった。自然と色々なものを整理したくなったり、日常の少しの変化でもうまく対応出来なかったり、また周囲の人間関係の構築が難しい。
私自身、自閉症の人と一緒に外に食事に行く時、周囲の音、例えばレストランは騒がしくないのか、流れているBGMは大きくないのかなどものすごく注意をして店の選択をしている。

おもしろかったのは、著者もかなり本を読んでいるようであるが、著者を含めサヴァン症候群の人は小説に全く興味を示さない人が多いという。現実は小説より奇なりということであろう。

ドナ・ウィリアムズの「自閉症だったわたしへ」にように読みやすく興味深い本でした。


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by daisukeozaki | 2013-01-10 11:00 | | Comments(0)