写真家・尾崎大輔のblog


by daisukeozaki
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基本、この本の大意は「カラマーゾフの兄弟」の途中にあるかの有名な「大審問官」の章と同じ。
人間は無意識のうちに服従を求めるということ。そのため、神が存在し、また運命を信じることを希求してしまう。
現代では服従すべき対象が資本主義という社会になり、私達はその鋳型にはめ込まれたうえでの‘自己’となっているというのである。仕事の面接などでの自己PRが良い例であろう。自分達を商品としてどこまで売り込むかが問題となるのである。このあたりはドゥルーズと似ている。

ただ、私としては特に目新しいと思う考えに出会うことはこの本の中ではなかった。

著者自体、ナチスに追われる身となっているため、ナチスの生成構造を分析しているが、まぁおおまかではそう思うが、そこまで深く共感出来るというものでもなかった。根源的要素にサディズム、マゾヒズムをおいているが、全てにそれが当てはまるのか首を傾げる箇所も結構あったような。視点をしてはおもしろいのはおもしろいのだが。
プラス、自由というものの定義がいまいちピンと来なかった。何をもって自由と定義していいものか。

とりあえず、同じ著者の「悪について」も購入しているので今読んでいる本が終われば読む予定。


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・新装版が出ていて、写真は前の装丁のものです。
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by daisukeozaki | 2012-09-28 23:21 | | Comments(0)
「結婚なんてたいしたことないから。」
「そのたいしたことのない結婚すらできない女ってみられたくないの。」
確かこんな感じのやりとりが映画の一幕であった。
あぁ、だから婚活までして結婚したい人があんなに多いんだと妙に納得した。

この映画で私が入り込めたのはこのシーンのみで後は冒頭から全く入り込めなかった。その理由を羅列すると、

・ 詐欺に遭うプロセスが弱すぎる。なんであんなに女の人が引っかかるのかよくわからない。阿部サダヲがそこまでの魅力のあるキャラクターに思えなかった。
・ 板前のシーンがダメ。いきなり少し前に入った人がお店の中心のカウンターで包丁をもってお客さんに接客できるわけがない。途中で仕込みを持ってきた他の板前さんに敬語を使っているので、尚更おかしいと思ってしまった。
・ 私は特に気になったのが、夫婦の会話が方言と共通語が交じり合っていること。そういう人はたまにいるけど、私の場合、方言で話すかどうかがその人に心を完全に許しているかどうか測る尺度になる。仕事関係の人は特に気を使っているというわけではないが、絶対に関西弁にならない。映画の中で特に怒っているときに、方言と標準語が交じっているのがすごく気になった。この夫婦そこまで気を許せる関係じゃないのかなと。
・ これは完全にネタばれですが、最後なぜ松たか子が捕まらなかったのかが不明。

映画の中でここまでは現実ですよというリアリティラインのひき方がこの監督にしては弱かったかも。
「ゆれる」、「ディアドクター」などの作品が作れる監督だけに、もうちょっと頑張ってほしかった。
次に期待しやす。
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by daisukeozaki | 2012-09-18 22:06 | 映画 | Comments(0)
高校時代の同級生とかも見ているかもしれないんで、最初に言っておくと、この映画はお勧めっす。みんな今、どうなってんのかなぁ〜とか何してんのかなぁとかを思わず思い出しやした。

映画はちょっと自粛するはずが、、、、という中、「桐島、部活やめるって」を鑑賞。良かったっす。
話に関しては、ベケットの「ゴドーを待ちながら」の高校生版。しかもストーリーあり。ただ、ゴドーを待ちながらと違い、桐島は皆知っている人物。
「ゴドーを待ちながら」というのは、2人の人がまだ会ったことのないゴドーさんを木の下で待ち続けるという有名な不条理演劇。2人はゴドーを待つ為に、ただ時間を潰しているだけ。ゴドーというのが結局、神のメタファーになっていて、神を待ちつづける人間の不条理というわけである。
後、同じ金曜日をいう日を違う登場人物の視点から描いたものを出しているが、これは哲学的に言えば、ハイデカーの世界−内−存在というもので、簡単に言えば、人の数だけ世界は存在するというもの。なので、同じ教室で同じ状況を共有しているのに、人によって全く見え方が違うというもの。

そういう難しい見方もできるけど、単純に誰しもが学生時代の自分自身を思い出し、登場人物の誰かに感情移入してみてしまう映画。良かったという理由は高校時代の自分はこうだったよなぁとかを終始思い出しながら見てしまったから。
高校時代の自分から見たら、今の写真家という自分は想像すらできない。
今でも後悔しているのが、当時高校2年生になるぐらいに小学校、中学校と続けていたバスケットをやめたことだ。辞めた理由は勉強もできなく、当時県大会で優勝するほどのチームでレギュラーも厳しいと思ったからである。映画に出てくるバレー部のセッターのように練習だけはものすごくしていた。それから、高校3年生はかなり勉強をし、現役で大学に受かったので良かったのではあるが、あのとき続けていてもうまくいったのではと、本当に後悔している。最後の同学年の3年生の引退試合を観に行った時に、よく最後まで残って僕と練習していた僕がいるとき補欠だった子がものすごく活躍していて、途中であきらめた自分にかなり不甲斐なさを感じたのを覚えている。
その時の後悔があったので、今まで写真を続けていれるのだと思う。

人によって、色々な見方ができるいい映画なので、お勧めっす!!!
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by daisukeozaki | 2012-09-13 20:36 | 映画 | Comments(0)
撮影が6時からだし、久しぶりにBlogをUPせねばと思い、最近読んだ本の感想をたんたんと書かせてもらいます。

「北回帰線」 ヘンリー・ミラー

放浪のパリ時代を書いた自伝的小説。ただ、ストーリーというものはほとんど存在しないといってもよい。そもそも小説にストーリーは必要なのかと思わせるような本。登場人物はひっきりなしに出ては、どこかに消えていく。「パリは娼婦に似ている」というように、世界の呪詛と詩的性描写に富んでいる作品。
「目を閉じさえすればいい。すると人生の向う側だ。」で始まるセリーヌの「夜の果てへの旅」。「北回帰線」も「夜の果てへの旅」と同じように生きていればいいことが必ずあるよと口からでまかせを言えない世界を描写している。
しかし、「北回帰線」では決して目をつむることは無く、その性描写に関しては現実を見続け、さらにそれが幻想にかわるような感じであった。ジャン・ジュネを読んだ時にも感じた、文章によって脱自経験を著者本人が行うような状態である。
著者本人、彼の自由奔放な生活、彼の文章の三つが全て繋がっている、三位一体のような作品。


「生命と現実(木村敏との対話)」 木村敏・槍垣立哉 共著

精神科医の木村敏と哲学者の槍垣立哉の対談本。
木村敏自体は西田幾多郎に傾倒しているが、頭でっかちな哲学ではなく、臨床の現場から培われてきた哲学だけに非常に面白かった。
ハイデカー、サルトル、ドゥルーズなどは最終的には一人の個人を軸とする哲学に帰する部分があるし、フーコー、レヴィ=ストロースは環境因子的な部分があまりにも多すぎる感がある。フロイト、ユングは前者に位置するであろう。
そうではなく、個人として自分の内側を掘り起こしていく垂直のベクトルと個人とは違った観点である他者、環境、文化といった平行なベクトルの両方から人間を見ていかないといけないと当たり前のことではあるが、再度それを認識するいい機会になった。
てんかん発作をもつドストエフスキーが発作に入ったその直後の数秒間、宇宙や自然との一体感のような恍惚体験を得るという逸話も面白かった。ドストエフスキーにとっては大自然のなかに自分が入り込めないというのが罪であり、それは自分がいるということが罪であるということに繋がっていく。なので、てんかん発作が罪からの救済ということになるのだという。

日本の精神科医の読みやすい本は私にとっては非常に興味深い本が多い。


「羊の歌」 加藤周一

加藤周一の自伝小説。自分が生まれてから8月15日の終戦の日が訪れるまでを振り返って書いている。
私が今まで読んだ戦争の自伝本のほとんどは国家や戦争という状況に完全に翻弄される一個人の物語がほとんどであったが、この本というか加藤周一自体はそういった状況でも物事を客観的にみれた一個人の例としてこの本自体が希有な本といえる。
真珠湾攻撃の日に舞台を観に行く話などは、世界は人の数だけあるというのが顕著に分かる箇所でもあろう。
「続羊の歌」も購入しているので、そのうち読む予定。

しかし、一番好きな下りは「私自身がひとりの女の眼のなかにすべてをみ、その一刻が世界全体よりも貴重だと思われるような瞬間」というところ。大体僕はこう言える男しか信用しない。

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by daisukeozaki | 2012-09-11 14:42 | | Comments(0)