写真家・尾崎大輔のblog


by daisukeozaki
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<   2013年 01月 ( 10 )   > この月の画像一覧

写真評論家の竹内万里子さんから尾崎さんにとって、いい社交の場となればとあるイベントを紹介され、参加した。
行ったのはいいのだが、結局、写真家の細江英公さん、伊奈英次さん、大西みつぐさん、後藤茂雄さん、飯沢耕太郎さん、町口覚さん、PGIの高橋さん、In-betweenとかの編集などをしているキュレターの菊田さん、ガーディアンガーデンの菅沼さん、写真協会の大平さんなど他にも偉いさんがたくさんいたと思うが、その前で自分の作品をプレゼンすることとなってしまった。写真集とか出しているので、ほとんどの人は写真自体を知っていてくれていたので楽は楽だったけど、公募展には一度も出品したことないので、これだけ一度に写真関係者にプレゼンするのは初めてだった。
写真をやっている人はこんな機会またとないと思うのか、あるいは結局ごちゃごちゃいわれるだけでしょと思うのかわからないけど、一応終わった。途中、写真集の「写真は私たちの記憶を記録できるのか?」で写真は記憶を記録できるかどうかということで、細江さんと飯沢さんが言いあいにもなっていておもしかったけど、思ったのは私自身がやはり自分の作品を言語化するのが下手糞すぎるということ。
今後色々とこういう機会も増えてくるので、最低限自分の写真を語れなくてはと思い、噂にもなっていたので、勉強のため志賀理江子の螺旋海岸を購入し、読了。

一般の方にとっての読み物としてはぼちぼちかなと思うけど、写真をやっている人にとってある箇所とかは必読とも思う。これだけ地域に根ざして、コミュニティに割って入っていくのを知り、写真からのイメージで志賀理江子氏という感じから、志賀ちゃんというイメージにこの本を読んで変わった。

全編を通して被写体との関わり合いに多くの部分を割いているのを見ると、やはり写真家なので同じだなぁとすごく感じた。ただ、私とは違って、彼女の中にある「イメージ」が強固であるため、被写体からもちろん影響は受けるがその「イメージ」自体が根本から変容しない。これが多くの今までの写真家と違う部分であろう。写真家は外部の「イメージ」に順応し、それをおのおのの見方から写真で切り取る。そのため、写真を視覚的に見た場合、外部の「イメージ」が写真上の「イメージ」として大半のウエイトをしめざるおえない。これが今までの古典的写真であり、私の写真もその典型である。
しかし、彼女の写真はそれとは違い、外部の「イメージ」を一度自分の「身体」取り込み、咀嚼し、再構築を行い、写真に定着させる。そのため、写真上での視覚的要素のウエイトの多くが彼女の「身体」から生じた「イメージ」におかれる。

今までも同じようにイメージを具現化する為に写真を用いる写真家は多くいたのであろうが、なぜ彼女の写真がクローズアップされるようになったかと思うと、この本の中で竹内さんも言っているように写真と距離の問題だと思う。
写真自体は必ず距離というものが存在し、それを顕著に表出してしまうものでもある。被写体と撮影者の間には必ずカメラが介在するわけである。
そして私も彼女も同じであるが、写真を撮るまでに被写体となるであろう人達との距離を時間をかけて詰めていく。いつも思うに、この距離を詰めていく作業は被写体との距離を縮めるだけでなく、撮影者の内部との距離をも縮めるのである。それによって、私の場合は世界の見方が変わるわけであるし、彼女はより自分の内側の「イメージ」をつかめることになるのであろう。
また、その距離を詰めるという作業に置いて、自分の内側を強烈に揺さぶる体験もするわけである。彼女の場合はそれが震災であったのであろう。写真家にとって大事なことは考えることではなく、考えさせられるものに出会うことであると思うが、それが震災という大きすぎる体験だったのであろう。写真家の齋藤陽道さんが彼女の写真を「震災のよって脱皮された写真」と言っていたこともうなづける。

この本で「身体」という言葉が何度も出てくるが、撮影者にとって、写真はどこまでこの身体にウエイトを置き、どこまで視覚に比重をおいているのか興味がある。なぜなら、視覚障害者の写真において、必ず一定段階で当たり前かもしれないが、写真に個性が出てくる。鷲田清一さんの好きなメルロ=ポンティではないが、写真も結局は視覚から生じたものではなく、身体から生じたものと感じることもおおいからである。
また、彼女が多用する「イメージ」という言葉。私はアールブリュット/アウトサイダーアートと関わることも多いので、そういう点からも彼女の写真に興味は持っている。
今までも写真療法やアールブリュットの写真をいう分野を色々と試みては観たが、ある一定のところまで「イメージ」として掘り下げれるが、それより深化させることはかなり難しい。例を挙げると写真療法として適用出来た症例などを見ると、神経症患者のみで、統合失調症など個人の実存の根源に関わっていくような病気などには適応出来ないという。やはり絵など無から有を生み出す芸術の方が内部の「イメージ」の具現化はしやすいのかもしれない。また、先日読んだピダハン族は写真を見せてもそこに何が写っているのか全く認識出来ない。訓練によって認識出来るようになるのだが、結局写真などは文化的に成熟した人間でないと認識することすら出来ないのである。

そのように考えた時、「身体」から「イメージ」を抽出し写真に定着させるという彼女の写真が今後どこまでいけるのか非常に興味をもつ。上記のようば例も結局写真自体が歴史の浅い文化であるため、今後どのようになっていくかはわからないし、今のところそうであるというだけであって、彼女のような写真家があたらしい境地を開拓してくれるかもしれないのである。
1枚の写真としての彼女の写真は今の段階はそれほど興味はないが、仙台のメディアテークのような曼荼羅みたいな展示が今後どのようになっていくかというのは興味がある。既存の写真集という体裁で彼女の写真を見てもそこまで関心をもつことはないかもしれない。

彼女の写真は視覚的に強い写真であるので、それに写し出された「イメージ」の説明としての彼女の言葉はいまいちだったけど、今後注目の写真家として一読の価値は無きにしも非ずです。

写真は紙の包装を破った後なので、実際店頭においてあるものは写真が印刷された放送にくるまっています。赤々舎のHPやアマゾンで確認して下さい。


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by daisukeozaki | 2013-01-31 19:24 | | Comments(0)
現代で一番好きな小説家はと聞かれたら、イーユン・リーと答えると思う。
それぐらいこの作家はすばらしい。
この長編小説も良かった。1点登場人物が多いので、最初少し入りにくいという難点はあるが、初の長編小説でこのレベルならば十分っす。

話はある村の一時代の話。ある女性が紅衛兵として文化大革命の運動に参加していた。文革後は文革自体を避難し、政治犯として囚われ、無実の罪を着せられ、処刑される。旧友の無実罪を知る同級生が幸福な家庭を捨て、抗議運動を起こしていくといった内容。

書きたいことはたくさんあるけど、長くなりそうなので、感想としては問題の大小はあれ、今日本では原発の問題がある。私も反原発派であるが、例えば、現政権は原発維持の立場で、もしこれで大地震が起った場合、今の福島と同じような状況になってしまう地域もでてくるかもしれない。その時、私達は心のどこかで、ざまあみろ、ほら言った通りだと思ってしまう部分はあるのではないだろうか。大変な思いをしている人が多くいるにもかかわらず。

この本の中ではイデオロギーのために生き、人生を翻弄された数多くの人達が登場する。この本の中では上記のような善悪では測りきれない登場人物の心の複雑さがよく描写されている。

この作家の著書はハズレはない!!
最新作短編集の「黄金の少年、エメラルドの少女」も購入済みなので、楽しみに読みます。


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by daisukeozaki | 2013-01-29 19:05 | | Comments(0)
素晴らしい本。「ヤノマミ」の情報量をさらに増やしたような本。その分、ストーリー展開はなくなるが、それを十分に補う情報量。

著者のダニエルは宣教師としてアマゾンの奥地のピダハン族にキリスト教を布教しよう彼らと一緒に生活を共にする。しかし、あまりにも文明社会とは違う生活をしているピダハン族に衝撃を受け、無神論者となり、そのまま生活をともにするのである。

ピダハンがなぜ今注目を浴びているかというと、「生成文法」という人間には普遍的で生得的な言語の根幹があると提唱するチョムスキーの理論が覆されそうな言語文化をもっているためである。
前半は彼らの生活習慣を中心に書かれており、後半はその独特の言語について書かれている。
内容を簡単に羅列すると、

・「こんにちは」、「すみません」「ありがとう」、「すみません」などの善意、敬意を表す言葉がない。全て行動で示す。

・赤、青、黄など色を表す言葉がない。緑だったら「まだ熟していない」という風に表現する。右や左を表す言葉がない。

・食べ物というものがそれほど重要視されていない。空腹は自分を鍛えるいい方法だと考えており、三日間ほとんど休みなしで踊り続けることもある。食料を保存する方法もない。

・将来を気に病んだりしないことが文化的な価値。しかし、だからといって怠惰なのではない。じつによく働く。

・儀式らしい行動がない。死んだ人物は埋葬されるが、特に儀式と呼べる行動はない。

・親類縁者を表す語(例えば、いとこ)が少ないので、血縁を基盤とした社会的制限も希薄になる。「いとこ」を表す言葉がないため、予想通りいとことの婚姻には制限がない。近親相姦は普通避ける傾向があるが、ピダハンの場合、ふた親とも同じ間柄や親や子、祖父母や孫など、禁忌の範囲がごくせまい。

・結婚の制度はあるが、離婚に対する後ろめたさはなく、比較的簡単に夫婦別れをすること、踊りや歌に乗じて乱交すること、思春期からあまりためらいもなく性行為を試している。以上のことを考えると多くのピダハンが多数のピダハンと性交を行っており、同じ町内に住むほとんどの隣人と性交渉があり、社会全体がそのことを善悪の基準で見るのではなく、たんにありきたりの人生のひとこまと見なしているような社会。

・集団的意識は強いのだが、他の村人に対して何かを命じるのは親子の関係であってもきわめて稀である。

・ものを数えたり、計算したりしない。数自体が存在しない。

・人が人生の区切りごとに同じ人間でなくなり、名前も変わってしまう。

・リカージョンがない。リカージョンとは簡単にいうと関係詞節(「ダンが買ってきた」針)みたいなもの。チョムスキーが提唱し、これによって有限である言葉の世界が無限へと変わることが可能になる。

・絵や写真など二次元のものは解読出来ない。写真を渡されると横向きにしたりさかさまにしたり、ここにはいったい何が見えるはずなのかと尋ねてきたりする。

上記にあげたのは本の一部でまだまだ彼ら独特の習慣、言語のことが書かれている。

なぜこのような文化が今まで生き残っているかというと、彼らは西洋文化をよいと思っていない。なので、西洋文化を受け入れていない。比較をしているというよりも、今の自分達の文化で十分満足しているのだ。個性や創造性を私達に必要とする文化はどれだけ精神的貧しさを含んでいるのか。

それを十分感じる名著。超超超おすすめ!!!!!


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by daisukeozaki | 2013-01-23 21:42 | | Comments(0)
記憶と映像、私の場合は写真であるが、「写真は私たちの記憶を記録できるのですか?」という写真集を出しているくらいなので、普通の人以上に興味のある事柄である。
この映画は人によっては80分のミュージックビデオと思えるかもしれない。早く終わってくれとも思うかもしれない。私の場合はそのうちの60分は泣いてしまった。私の現状でこの映画はドストレートもいいところ。

世界の色々な所を旅し、演奏してきて、仲間や友人と一緒に様々な活動を行ってき、また最愛の奥さんと娘に囲まれ、やっとこれからといった矢先に交通事故により外傷性脳障害により、短時間で記憶を失ってしまうという障害をおったGOMAというアーティストの映画。3Dとして現在のGOMAを映しだし、2Dとして過去のGOMA映し出している。
内容自体はよくある話と思う。手法は「トウキョードリフター」を観に行った時に松江監督本人から聞いていて、その手法に興味をそそられていたので観に行こうとは決めていた。

人によっては別にと思うであろうこの映画にここまで感動したのは、私がもしGOMAだったらと終始考え続けてしまった為である。この他者の身になった場合を想像するというのは写真を撮る時も癖としてよくやっている。
もし同じように記憶障害をわずらった時に、自分はどうするであろうか。そのとき、自分で撮った写真を見て、いつ、どこで、なぜ撮ったかも思い出せない自分に会い、恐怖で動けなくなるのではないのか。その時彼のように私は写真を撮り続けるのであろうか?
また、写真を撮る事は身体的に覚えているのに、最愛の家族の記憶を失ってしまっている自分に自己嫌悪をいだかないであろうか?
そのようなことを終始考え、後ろに映し出されていく写真、映像の多くがこの人にはないのだと思うと、涙をおさえるのに大変だった。
人は記憶の上で大部分を生きているのである。

写真をやっている方は中平卓馬を思い浮かべるであろう。

この映画を長く感じる人もいるかもしれないが、私は最後の方で永遠にこの演奏を続けていってほしいと思ってしまった。もしGOMAが演奏をやめ、明日朝起きた時に全ての記憶を失ってしまっていたら、もう二度と同じように演奏をすることができないからだ。演奏を続ければ、終わる事はなくなるわけである。

直接会っている人には伝えているが、嫁が妊娠中で問題なければ6月上旬には子どもが生まれてくる。最近ではよくお腹をけるらしく、日に日に大きくなっているのがわかる。今日定期検診にいっており、男の子か女の子かわかるかもしれない。
もし同じ障害をおった時に、私の消えてもいい記憶は写真を撮るという事なのか、はたまた最愛の人の事なのか。

この映画はGOMAの生きた証でもあり、未来へ向けた自分自身ヘのメッセージでもある。

私の座っていた列の一番端の女性も「松江監督すげぇ。」と言っていたので、響く人にはかなり響く映画と思います。
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by daisukeozaki | 2013-01-22 18:11 | 映画 | Comments(0)
普通のハリウッド映画というべきか。
去年の映画評論家町山1位だったので、観に行こうと思っていたが、先日友人のY泉さんのtweet見てそんなに期待をせずに観に行ったからよかったかも。
娯楽として普通に観る分には面白いと思うけど、ただそれ以上でもそれ以下でもないかな。

メインテーマは復習の連鎖をどう断ち切るかということだ。エンディングでそれはきっちり見せているが、復習の連鎖を断ち切る解答としては映画のおもしろさはどうあれ、「灼熱の魂」のエンディングの方が私にとっては模範解答だったかも。

ジョセフ・ゴードンと30年後の自分役であるブルース・ウィルスがあまりにも似ていないということをおいといたとしても、タイムスリップと超能力の両方を映画にいれたので、ちょっと散漫になっている気が。。。。

DVDで十分かな。
ブールス・ウィルスは本当にアスピリンを飲む姿が似合うと思った映画でした。
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by daisukeozaki | 2013-01-20 20:24 | 映画 | Comments(0)

「芸術実行犯」 Chim↑Pom

アートの定義とは何であろう。それは十人十色である事は間違いない。
ただ、その一つの定義として、日常を揺るがし、日常を疑わせ、日常を気づかせることであると彼らは言う。平和の中で平和に気づく、それはなかなか難しい事なのだ。
彼らは社会的問題に対して、曲がりなりにも「答える」のではなく、「応え」てきたのであろう。
発表の場は美術館という枠の中でとどまるのではなく、公共空間の中でも最近では行っている。美術館では「謎に会うぞ」と心の準備はできているが公共空間ではそうではない。赤瀬川原平の言葉を引き、駅員や通行人や警官にもアートを見せたいというのが根本的な考えとしてあるからだ。

Chim↑Pom自体の評価はこの本を読む前にかなり狙っている感があって、どうも取っ付きにくかったが、本の中で共感する部分も多々あり、より身近に感じるようになった。

アーティストは「名乗る」より「やる」ものというのもおっしゃる通り。
本当にごく稀に学生さんなどから写真家になりたいのですが、写真を見てもらえませんかと連絡が来る。こんな私でも勇気を出してそういって見せにきてくれるのだから、一度も断った事はないが、いつも「写真家になるのは簡単だけど、写真家として死ぬことは大変なことだし、それを考えた方がいいかも」と話している。

この本の後半部分はChim↑Pomと同じような活動をしている。海外のアーティストを紹介している。それをアートといっていいのかどうかはわからないけど、面白いのでいくつか動画サイトのリンクを貼付けておきます。

バンクシーという覆面グラフティーアーティスト。
最初のリンクが彼の作成したドキュメンテリー映画。ものすごくおもしろいので、芸術に興味がある人は必見の映画と思います。2つ目のリンクはバンクシーが作ったシンプソンズのオープニング。これにOKを出すシンプソンズサイドを含め、すごすぎ。サザエさんとかちびまる子ちゃんとかでこれをやったらと考えてみる凄まじい。
http://www.youtube.com/watch?v=nBBe-kx_ODo
http://www.youtube.com/watch?v=DX1iplQQJTo

Remi Gaillardという人で、公道でリアルマリオカートをやってみるというもの。面白し。
http://www.youtube.com/watch?v=MytfhzcSF-Y

Improv Everywhereというアーティスト集団。このイベントは多くの人を集めて、地下鉄にパンツを脱いで下半身丸出しの状態で乗車してもらうというパフォーマンス。他にも色々とやっている集団。
http://www.youtube.com/watch?v=aSv0jVfPhTw


本自体は読むと創作活動をしている人は非常にテンションがあがる内容だと思うので、気になる人は読んでみては。

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by daisukeozaki | 2013-01-14 22:06 | | Comments(0)
実家に帰った時に、両親が観に行ったらしく絶賛していたので、新宿バルト9にて鑑賞。私の両隣は感動して泣いていたけど、私は・・・・。

あらすじは19世紀、ジャン・バルジャンは、19年も刑務所にいたが仮釈放される。老司教の銀食器を盗むが、司教の慈悲に触れ改心 する。身分を隠し、工場主として成功を収め市長になった彼は、以前自分の工場で働いていて、娘を養うため極貧生活を送るファンテーヌと知り合い、幼い娘の面倒を見ると約束。そんなある日、全くの別人がバルジャンとして逮捕されたことを耳にする。自分がバルジャンであることを名乗り出て、再び終われる身となるのか。それとも、終われる身となれば、工場も潰れ多くの人が飢える為、沈黙を守るのか……。

ミュージカルを映画化したため、台詞は全て歌にのって語られる。顔の表情がUPされたカットがほとんどで、俳優の歌の台詞や表情による演技を十分堪能出来、おそらくミュージカルを映画にするメリットはそこで存分に満たされていると思う。ストーリー展開のテンポもすごく良かった。

思うにこの世界に入り込めるかどうかで大きく映画の評価が分かれると思う。余韻が好きな私は良い映画だと思うけど、まぁまぁかなといった感じ。
見終わった後は去年のアカデミー賞を取った「アーティスト」を鑑賞した後と同じぐらいのテンション。いい映画だと思うけど。。。。

どうしてもひっかかる点は結末。

ここからはネタバレなので、観に行く人は読まない方がいいと思います。
最終的にコゼットと結婚したマリユスについて納得がいかない。王政復古を目指す体制側の家系から離れ、反体制側につき革命を起こそうとしたマリユスは同士を全て殺される。結局仲間を失い一人になった後は、王政復古を支持する自分の家に戻り、結婚したコゼットと仲良く暮らす。死んでいった自分の仲間に対する無情さたるやなんたることか。
それこそが「レ・ミゼラブル」=「ああ、無情」なのか。

アカデミー賞とるかもしれないので、泣ける人は泣けるので、観に行ってみては。
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by daisukeozaki | 2013-01-10 20:43 | 映画 | Comments(0)
ぼくには数字が風景に見える ダニエル・タメット

数字が風景のように見え、詩人が言葉を選ぶと時のように、ある数の組み合わせが他に比べてはるかに美しく見えるというサヴァン症候群の著者。
サヴァン症候群とは高度自閉症であり、アインシュタインやエジソンもサヴァン症候群ではなかったのかと言われている。
数字に色や風景を感じたり、他の感覚が反応してしまう事を共感覚と呼ばれている。ただ、この共感覚は特別な感覚なのかというとそういうわけではない。
例えば、私達は「楽しい」と聞いた時、「上昇」に近いイメージをもつし、「悲しい」と聞けば、逆に「下降」のイメージを持つ。共感覚の人はこのイメージがさらに強烈になるのである。
創作活動をしている人達は一般の人よりも7倍近く共感覚の人がいると言われている。詩人のランボーなどはその典型であろう。
全体を通して、著者がどのように生きてきたのかが描かれている。普段、自閉症の人達と接する機会が多いので、あぁ同じ世界を感じているのだと思う部分は多かった。自然と色々なものを整理したくなったり、日常の少しの変化でもうまく対応出来なかったり、また周囲の人間関係の構築が難しい。
私自身、自閉症の人と一緒に外に食事に行く時、周囲の音、例えばレストランは騒がしくないのか、流れているBGMは大きくないのかなどものすごく注意をして店の選択をしている。

おもしろかったのは、著者もかなり本を読んでいるようであるが、著者を含めサヴァン症候群の人は小説に全く興味を示さない人が多いという。現実は小説より奇なりということであろう。

ドナ・ウィリアムズの「自閉症だったわたしへ」にように読みやすく興味深い本でした。


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by daisukeozaki | 2013-01-10 11:00 | | Comments(0)
性において何が正常で何が異常なのかという疑問は常にある。その問いに立ち向かったのがこの本、というかコリン・ウィルソン。
アウトサイダーから殺人百科までいくつか読んでいるが、神保町の古本屋なので150円だったので購入し、読了。

トルストイは子孫を残す為の生殖行為以外はすべて異常だと示唆していた。現在においては多くの人はそれを聞いても首をかしげてしまうであろう。基本、本の中にある通り、私達の道徳的判断の大部分は社会の現状維持に基づいている。
そして、文明社会の多くの国において、性が悪と関係しているという考えが主にあるのであろう。ただ、性がなければ、確実に人類は滅亡しているわけである。そして、衣・食・住が満たされた後、人々は性に興味をいだく。
ちなみにおそらく三大欲望、食欲、睡眠欲、性欲で一番弱いのは性欲だと私は思う。なぜならば、ホロコーストに関してかなりの著作を今まで読んできたが、アウシュヴィッツにおいて多くの人がそこに同姓愛も含めた性交渉はなかったと言っている。それでも囚人間で性交渉が行われていたわけであるが、行っていたのはほとんどが特殊部隊と言ってガス室で殺された死体の処分を担当しいていた囚人で、証拠隠滅のため、特殊部隊も定期的に殺されるわけなのだが、比較的他の囚人よりも優遇されていたらしい。そのために性欲も他の囚人よりも強くなったのであろう。
性に興味をいだき、後は「殺人百科」にも書かれているがマスローの欲求段階説のように欲望は増幅していき、ゲーテのファウストのように「単調な1年より、快楽にみちた1時間」を求める。さらにそこにサルトルで言う「魔術的思考」(カミュの「異邦人」ように太陽がのぼったから、人を殺したというような完全な論理破綻による思考)とラットや猿の社会心理実験からもあるようにその人の環境状況がプラスされれば、異常殺人者となってしまうと著者は語る。

ただ、この本の難点はフロイトのタナトスに関して否定的であるという点。異常殺人などサディズムの考察は的を得ているように思うが、私が実際見聞きしてきた、風俗嬢に何十万も払って、自分自身の血管を破裂させたり、有刺鉄線でSMの縛りをやったりする人の説明が出来ていないと思う。また、同性愛者に関しての説明も物足りない。

これを読むならば、同じ著者の「殺人百科」の序文を読んだ方がおもしろいかも。後は大体上記の要約で事足りると思います。

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by daisukeozaki | 2013-01-09 20:12 | | Comments(0)
園映画が愛のむきだし以降流行しているが、彼が今までどのように映画を撮ってきたのかを書いた自伝のような本。

一番共感したのは、私達まがりなりにも「芸術」と呼ばれる創作活動をしている人が作品の中に埋め込むのは‘情報’ではなく、‘情緒’であるということ。事実をそこに示すのではなく(そもそも事実というのが何なのか曖昧だが)、作者がそれにどのように感じたか、どう思ったのかを表さないといけないということ。
それによって、一人でも鑑賞者に世界を見る違った見方を提示するのが、私達の行っている事のように思う。

おもしろいのは、初期に作成した映画の広報の仕方。「内容なんかどうでもいいからとにかく目立て」というのが、その本質。違う有名監督のトークショーのある日に映画を観に行き、観衆の前で質問する。「えー、わたくしはですね、来月の××日から○○ホールでレイト上映する『自転車吐息』という映画を監督した園というものですが、」と質問を始める。監督は「なんだ、宣伝じゃねえか」と怒るがそんなのをかまわず、何度も繰り返す。さらに終わった後、映画館の前で自分のアナウンスした映画のビラを配るといった方法など、様々な方法でお客を集める。私も本当に見習わないといけない。
あと、東京に行けば、童貞を棄てれると思って家出する。東京駅についたが、やることもなく、そのまま駅で持っていたギターを弾いていたら、女性が現れる。「この辺にレストランありませんか」と聞かれたので、「ホテルなら知ってますけど」と答えたら、そのままホテルにいくことに。初体験に夢を膨らませていたら、女性が情緒不安定ではさみでちんこを切られそうになるといった始まりは夢のような悪夢の話もおもしろかった。

すごく読みやすいので、暇な時にさらっと読める本だと思います。


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by daisukeozaki | 2013-01-08 10:25 | | Comments(0)