新作について
2010年 08月 31日
宮台真司の本を読んでいて、安倍公房の「砂の女」の私論が目に留まる。
そこで端的に言えば「砂の女」の男の主人公が環境によって人間が変わっていく視点(特にラストシーンであろう)を評価していた。
そこで私はふとエリ・ヴィーゼルの「夜」を思い出した。ホロコーストを自伝的に書いた本だが、有名なのはフランクルの「夜と霧」のほうであろう。
その本の中で印象に残った箇所を挙げる。
収容所に収容され、絞首刑台で誰が殺されても誰一人涙を見せない中で、ある日、不幸な天使のような顔をした少年が絞首刑にさせられる。同時に他に大人2人が絞首刑にあうが大人が即死である一方で、子供で体重が軽いために、その天使は30分あまり臨終の苦しみをつづけなければいけなかった。そして、主人公達全員がその光景を直視するように強制される。主人公の後ろの男が
「いったい、神はどこにおられるのだ?」
小声でささやく。主人公は小声で囁き返す、
「どこだって。ここにおられる―ここに、この絞首台に吊るされておれる・・・・。」
献身な信仰をもっていた主人公はここで神を捨てる。
その後も、様々な言葉では表すことのできないような環境を耐え、父親を支えながらともに生き残っていくのだが、最後の最後で父親が死んでしまう。
『私は涙が出なかった。そして涙を流すことができないのが、わたしにはつらかった。しかし、わたしにはもう涙がなかったのである。そのうえ、もし自分のひ弱い良心の奥深い所を掘り返したならば、おそらく私自身の奥底に、なにかこう呼べるようなものが見いだされたことであろう。—とうとう自由になった!・・・(「夜」 エリ・ヴィーゼル 本文より)』
彼は最後に自分の心の中の‘シャドウ’を見てしまう。
宮台真司の安倍公房の評論からかなり離れてしまったが、エリ・ヴィーゼルにもあるように環境によって人間の奥深くに隠れている何かが表象されるではなかろうか?それは普段私達がもってはいるが、隠れてみえないだけではなかろうか?それによって私達はどこまで違う人間へと変わっていくのだろうか?あるいはそれが人間の本来の姿なのであろうか?
次回作は小説で言うと個人的に短編小説のようになるが、人間の欲望や煩悩を反映される。いつ発表できることやら・・・。
そこで端的に言えば「砂の女」の男の主人公が環境によって人間が変わっていく視点(特にラストシーンであろう)を評価していた。
そこで私はふとエリ・ヴィーゼルの「夜」を思い出した。ホロコーストを自伝的に書いた本だが、有名なのはフランクルの「夜と霧」のほうであろう。
その本の中で印象に残った箇所を挙げる。
収容所に収容され、絞首刑台で誰が殺されても誰一人涙を見せない中で、ある日、不幸な天使のような顔をした少年が絞首刑にさせられる。同時に他に大人2人が絞首刑にあうが大人が即死である一方で、子供で体重が軽いために、その天使は30分あまり臨終の苦しみをつづけなければいけなかった。そして、主人公達全員がその光景を直視するように強制される。主人公の後ろの男が
「いったい、神はどこにおられるのだ?」
小声でささやく。主人公は小声で囁き返す、
「どこだって。ここにおられる―ここに、この絞首台に吊るされておれる・・・・。」
献身な信仰をもっていた主人公はここで神を捨てる。
その後も、様々な言葉では表すことのできないような環境を耐え、父親を支えながらともに生き残っていくのだが、最後の最後で父親が死んでしまう。
『私は涙が出なかった。そして涙を流すことができないのが、わたしにはつらかった。しかし、わたしにはもう涙がなかったのである。そのうえ、もし自分のひ弱い良心の奥深い所を掘り返したならば、おそらく私自身の奥底に、なにかこう呼べるようなものが見いだされたことであろう。—とうとう自由になった!・・・(「夜」 エリ・ヴィーゼル 本文より)』
彼は最後に自分の心の中の‘シャドウ’を見てしまう。
宮台真司の安倍公房の評論からかなり離れてしまったが、エリ・ヴィーゼルにもあるように環境によって人間の奥深くに隠れている何かが表象されるではなかろうか?それは普段私達がもってはいるが、隠れてみえないだけではなかろうか?それによって私達はどこまで違う人間へと変わっていくのだろうか?あるいはそれが人間の本来の姿なのであろうか?
次回作は小説で言うと個人的に短編小説のようになるが、人間の欲望や煩悩を反映される。いつ発表できることやら・・・。
by daisukeozaki
| 2010-08-31 20:19
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