最近読んだ本の感想(「北回帰線」 ヘンリー・ミラーなど)
2012年 09月 11日
撮影が6時からだし、久しぶりにBlogをUPせねばと思い、最近読んだ本の感想をたんたんと書かせてもらいます。
「北回帰線」 ヘンリー・ミラー
放浪のパリ時代を書いた自伝的小説。ただ、ストーリーというものはほとんど存在しないといってもよい。そもそも小説にストーリーは必要なのかと思わせるような本。登場人物はひっきりなしに出ては、どこかに消えていく。「パリは娼婦に似ている」というように、世界の呪詛と詩的性描写に富んでいる作品。
「目を閉じさえすればいい。すると人生の向う側だ。」で始まるセリーヌの「夜の果てへの旅」。「北回帰線」も「夜の果てへの旅」と同じように生きていればいいことが必ずあるよと口からでまかせを言えない世界を描写している。
しかし、「北回帰線」では決して目をつむることは無く、その性描写に関しては現実を見続け、さらにそれが幻想にかわるような感じであった。ジャン・ジュネを読んだ時にも感じた、文章によって脱自経験を著者本人が行うような状態である。
著者本人、彼の自由奔放な生活、彼の文章の三つが全て繋がっている、三位一体のような作品。
「生命と現実(木村敏との対話)」 木村敏・槍垣立哉 共著
精神科医の木村敏と哲学者の槍垣立哉の対談本。
木村敏自体は西田幾多郎に傾倒しているが、頭でっかちな哲学ではなく、臨床の現場から培われてきた哲学だけに非常に面白かった。
ハイデカー、サルトル、ドゥルーズなどは最終的には一人の個人を軸とする哲学に帰する部分があるし、フーコー、レヴィ=ストロースは環境因子的な部分があまりにも多すぎる感がある。フロイト、ユングは前者に位置するであろう。
そうではなく、個人として自分の内側を掘り起こしていく垂直のベクトルと個人とは違った観点である他者、環境、文化といった平行なベクトルの両方から人間を見ていかないといけないと当たり前のことではあるが、再度それを認識するいい機会になった。
てんかん発作をもつドストエフスキーが発作に入ったその直後の数秒間、宇宙や自然との一体感のような恍惚体験を得るという逸話も面白かった。ドストエフスキーにとっては大自然のなかに自分が入り込めないというのが罪であり、それは自分がいるということが罪であるということに繋がっていく。なので、てんかん発作が罪からの救済ということになるのだという。
日本の精神科医の読みやすい本は私にとっては非常に興味深い本が多い。
「羊の歌」 加藤周一
加藤周一の自伝小説。自分が生まれてから8月15日の終戦の日が訪れるまでを振り返って書いている。
私が今まで読んだ戦争の自伝本のほとんどは国家や戦争という状況に完全に翻弄される一個人の物語がほとんどであったが、この本というか加藤周一自体はそういった状況でも物事を客観的にみれた一個人の例としてこの本自体が希有な本といえる。
真珠湾攻撃の日に舞台を観に行く話などは、世界は人の数だけあるというのが顕著に分かる箇所でもあろう。
「続羊の歌」も購入しているので、そのうち読む予定。
しかし、一番好きな下りは「私自身がひとりの女の眼のなかにすべてをみ、その一刻が世界全体よりも貴重だと思われるような瞬間」というところ。大体僕はこう言える男しか信用しない。
「北回帰線」 ヘンリー・ミラー
放浪のパリ時代を書いた自伝的小説。ただ、ストーリーというものはほとんど存在しないといってもよい。そもそも小説にストーリーは必要なのかと思わせるような本。登場人物はひっきりなしに出ては、どこかに消えていく。「パリは娼婦に似ている」というように、世界の呪詛と詩的性描写に富んでいる作品。
「目を閉じさえすればいい。すると人生の向う側だ。」で始まるセリーヌの「夜の果てへの旅」。「北回帰線」も「夜の果てへの旅」と同じように生きていればいいことが必ずあるよと口からでまかせを言えない世界を描写している。
しかし、「北回帰線」では決して目をつむることは無く、その性描写に関しては現実を見続け、さらにそれが幻想にかわるような感じであった。ジャン・ジュネを読んだ時にも感じた、文章によって脱自経験を著者本人が行うような状態である。
著者本人、彼の自由奔放な生活、彼の文章の三つが全て繋がっている、三位一体のような作品。
「生命と現実(木村敏との対話)」 木村敏・槍垣立哉 共著
精神科医の木村敏と哲学者の槍垣立哉の対談本。
木村敏自体は西田幾多郎に傾倒しているが、頭でっかちな哲学ではなく、臨床の現場から培われてきた哲学だけに非常に面白かった。
ハイデカー、サルトル、ドゥルーズなどは最終的には一人の個人を軸とする哲学に帰する部分があるし、フーコー、レヴィ=ストロースは環境因子的な部分があまりにも多すぎる感がある。フロイト、ユングは前者に位置するであろう。
そうではなく、個人として自分の内側を掘り起こしていく垂直のベクトルと個人とは違った観点である他者、環境、文化といった平行なベクトルの両方から人間を見ていかないといけないと当たり前のことではあるが、再度それを認識するいい機会になった。
てんかん発作をもつドストエフスキーが発作に入ったその直後の数秒間、宇宙や自然との一体感のような恍惚体験を得るという逸話も面白かった。ドストエフスキーにとっては大自然のなかに自分が入り込めないというのが罪であり、それは自分がいるということが罪であるということに繋がっていく。なので、てんかん発作が罪からの救済ということになるのだという。
日本の精神科医の読みやすい本は私にとっては非常に興味深い本が多い。
「羊の歌」 加藤周一
加藤周一の自伝小説。自分が生まれてから8月15日の終戦の日が訪れるまでを振り返って書いている。
私が今まで読んだ戦争の自伝本のほとんどは国家や戦争という状況に完全に翻弄される一個人の物語がほとんどであったが、この本というか加藤周一自体はそういった状況でも物事を客観的にみれた一個人の例としてこの本自体が希有な本といえる。
真珠湾攻撃の日に舞台を観に行く話などは、世界は人の数だけあるというのが顕著に分かる箇所でもあろう。
「続羊の歌」も購入しているので、そのうち読む予定。
しかし、一番好きな下りは「私自身がひとりの女の眼のなかにすべてをみ、その一刻が世界全体よりも貴重だと思われるような瞬間」というところ。大体僕はこう言える男しか信用しない。
by daisukeozaki
| 2012-09-11 14:42
| 本
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