視覚障碍者の夢
2013年 12月 01日
昨日で展覧会も終わって、最終日のトークイベント・交流会に来て頂いた方、本当にありがとうございます。
最終的にはギャラリーに入りきらないぐらい多くの人が来て頂いて、本当にありがたいと思ったのと同時に、これだけの人が興味を持っている新しい分野でもあるので、次も頑張らないと気を引き締める限りです。
それで、今回の視覚障害者の夢の世界というテーマの展覧会でトークに生まれてから目の見えない先天盲の方で夢に映像が流れるという人が写真教室に何度も参加してもらっていたので、その人に来て頂いて、夢の質問や色の質問などをさせてもらいました。
結論からいうと、私が間違っていて、その方も最後に言っていたが夢の中に視覚情報は出てこないということである。
岡山の川崎医療福祉大学の先生が以前に視覚障碍者の夢の研究をしていて、その研究結果によると5歳までに失明した方は夢の中で視覚情報としての夢は見ないという結果が出ており、直接その先生とお会いして、今回の展覧会の話も前もってしていたのだが、おそらく現段階ではその先生の研究結果が正しいと昨日のトークをして思った。
それで思ったのが、なぜ私が間違ってしまったのかということである。なぜ映像が流れるという言葉を使ったのか。
視覚障害者の山口さんも来てもらっていて、山口さんは写真教室に毎回いるので、小林さんが夢に映像が流れてくるという話をしていたのも聞いていたので、二人でどうして間違えたのかトークの終わった後に話をした。おそらく写真教室にその時参加されていた方も夢の話を少し聞いていたと思うが。
山口さんと私の結論は「イメージ」や「映像」、「見る」などは全て先天盲の方は概念であって、その時に話している言葉や環境によって間違って認識をしてしまって、(例えば映像でないのにそれを‘映像’と思い込んでしまう可能性が高いから)それで夢に映像が流れてくると以前話していたのではということである。
他にも夢の中で形が出てくるということもそれは触った感触であり、視覚情報として出てくるのではないということである。晴眼者にとっては触った感触と音だけの夢などはないと思うので、「出てくる」という言葉自体がどうしても晴眼者にとっては‘視覚’要素の動詞であって、視覚障害者にとっては触覚による‘動詞’なので、どうしても「形が出てくる」といわれると視覚要素として間違ってしまう。
先天盲の方は中途失明の方よりもこの言葉による概念の世界が非常に深く広くそれを何らかの形で認識というか信じないと社会に適応できない。
例としては神様の例で、多くの人が神様に対して人間の形や顔のイメージを持っているし、神が存在するかどうかは分からないのだけれども、大多数の人が神の存在を信じ、神を中心に社会が回っている場合、その社会においては神を信じなければ自分自身を社会に適応させることが困難になってしまうような状態である。
先天盲の方はこの概念の世界があまりにも多く、どうしても私も視覚情報に頼った情報や認識の元で話をしてしまうので、視覚情報に基づいた言葉をつかって誘導していくような感じの会話となってしまい、夢に映像が出てくるとなったんじゃないかなというのが結論です。
「赤」という色の話が変わってしまったことや雨の色の話の時に「黒」に対してよくないイメージをもっていることなどは私達、晴眼者の社会のイメージを刷り込まれたからだとも思った。
最後の私がした美とは何かという答えで「秋のライトアップされた紅葉やその光」という答えも山口さんは今、色々とテレビなどで秋の紅葉が美しいと報道されていて、その影響からじゃないかなと言っていたが、私もそう思った。
ガーディアン・ガーデンで写真教室をした時に参加された先天盲の方に同じ夢の話した時に「どうして映像を見たことがない人が夢に映像が出て来た時に映像とわかるの?」といわれたが、その通りである。今回それが大いなる誤解だと分かったのだけれど、私は非常に色々と勉強になったし、もし今後同じように先天盲の方で夢では世界を見ることができるという人が出て来たら、そのことを信じたいと思います。
視覚障碍者の夢の研究をされてた先生にもベルクソンを引用していわれたけど、もし夢で世界を見れるという先天盲の人が現れても、否定するのではなく、それを受容し、そこからその人と共に世界を広げていくことの方が重要だということ。
写真展の時にも言われたけど、私自身がもっと視覚に頼らないようにしていかないとこの視覚障碍者の写真という活動のさらに深い所には行けないなぁと思った展覧会でした。
<追記>
Facebookでその後色々と皆さんがコメントくれたので、ここでもそれをイニシャルで追記させて頂きます。
(Nさん) 夢の話、なるほど そういうことだったんですね。雨の色の話、おもしろかったです!先天盲の方々に、晴眼者でいう視覚情報のことを、私たちは知りたがりますが、実は もっと広く深いところで 理解し、同じ世界を生きなきゃな と思いました(意味不明)
(尾崎) Nさん、昨日もありがとうございました。
そうなんですよ、それで視覚障碍者の方の世界を理解しようとして、色んな方と話をしたりするんですが、その時に使っている言葉自体が僕らが「見る」ことに よって生まれた言葉なので、その言葉で話をした場合、今回の先天盲の夢の話みたいに間違った認識が生じちゃうんだなぁと思いました。
「イメージ」という言葉自体も視覚から生まれた言葉なんじゃないかなぁと。
ただ、小林さんが尾崎カメラマンはイケメンっていったことは間違いじゃないと信じたいっすけどね(><)
(Sさん)我々の「見てる」世界が正しいとは限らないし、なんというか、ホントは言語体系が違うだけのようなものなのかもしれませんね。
(尾崎)そうなんですよ。
使っている言語は同じなんですけど、違う形で言葉の世界が成り立っているので、どうしても晴眼者と視覚障害者の間で差異が生まれてしまうんだと思います。
Sさんに言ったかもしれませんが、いったいどれくらいの先天盲の方が信号に対して「青」という言葉を使っているけど、実際見えているのは「緑」だと知っているかと考えてました。
今後の写真教室の時に聞いていこうと思ってます。
話変わるんですが、この前Sさんが言ってた視覚障害のある患者さんに対してのドクターの対応に関してネタを仕入れました。
癌ではなく、主に透析になるんですが、それ以外にもやってみたら興味深いものになるネタもあります。
本格的にやる際に紹介するんで、連絡下さい。
(Sさん)言語が違うと思考も変わりますからね。うーん。そしてその体系の違いも、概念上のものでしかないので確かめる術がなく、なんというかもどかしい。
なんと!ありがとうございます!、企画書書かにゃ…。
(Nさん)小林さんが尾崎カメラマンはイケメンっていったことは間違いじゃないと信じたいっすけどね(><)
素敵な奥様に真相を聞いてみてください(笑)
(尾崎)相棒の水谷豊を見ている時に、そんなことを聞いたら殺されます。
(Sさん)雪 が白いのは知っている と仰っていたのが印象に残っています。晴眼者の目で見て晴眼者の言葉で語った世界を教育されて社会に適応するのだなと。晴眼者も教 育されているからある一定の見え方に頼りがちですね。私達写真家はある一定の見えかたを突き抜けるものを作るのが仕事ですが、それを、視覚障害者の人とも 共有する方法が分かれば、すごいことになるんだろうなと思ったり思わなかったり。。文学の仕事かも知れませんが 今回もとても勉強になりました
(尾崎)この「知っている」を字面通り解釈してしまうと、今回私が勘違いしたように視覚障碍の方でも夢に映像が流れてくる方がいるとなってしまうんだと思います。
ちなみにまた長くなるんで書きませんが、「文学」で例えば小説などは視覚障碍者の方によって読み方が違います。清水さんが質問して頂いた「音楽」に関して二人の視覚障害者で違いがあったのと似たような感じです。
今後ともよろしくお願い致します。
(Kさん)ヘレン・ケラーのような方をゲストに呼べばもっといろんなことがわかるということですか?
(尾崎)私の写真教室に以前全く見えないというわけではないですが、ヘレンケラーのように耳が聞こえなくて、目も見えないという方が参加されたことがあります。
ヘレンケラーとは少し違いますが、日本で有名な方で福嶋智さんという方がいます。
日本だと約5000人の盲聾者がいると言われていて、本当はもっと多いと思います。多くの人が知的障碍の複合的な障碍のある方達です。
ヘレンケラーを呼んでも確かに色々わかるかもしれませんが、またちょっと違うかもしれないですね。
今回分かったのは私が使っているこの言葉がどれだけ視覚から成り立っているかということでした。ヘレンケラーの場合、それにさらに聴覚が加わり、視覚障害の方以上に概念の世界が広がる感じだと思います。
私達晴眼者から考えた場合、「神様」「悪魔」「天使」「おばけ」「幽霊」「UFO」などで埋め尽くされているような世界です。
(Kさん)丁寧な回答ありがとうございます。つまり、「目に見えない物は信じない」の反対ってかんじですね、映像は決して概念では無く、視覚として見えないものは、見えないだけってことですね?
(尾崎)そうっすね。目に見えないものでも信じていかないと、目が見える人が大多数の人の世界ではやっていけないという感じです。
極論を言うと、映像という言葉を実際はラジオのように音声だけなのに、「映像」という言葉を使っている方がいる感じです。
(Kさん)なるほど、わかりやすい。

最終的にはギャラリーに入りきらないぐらい多くの人が来て頂いて、本当にありがたいと思ったのと同時に、これだけの人が興味を持っている新しい分野でもあるので、次も頑張らないと気を引き締める限りです。
それで、今回の視覚障害者の夢の世界というテーマの展覧会でトークに生まれてから目の見えない先天盲の方で夢に映像が流れるという人が写真教室に何度も参加してもらっていたので、その人に来て頂いて、夢の質問や色の質問などをさせてもらいました。
結論からいうと、私が間違っていて、その方も最後に言っていたが夢の中に視覚情報は出てこないということである。
岡山の川崎医療福祉大学の先生が以前に視覚障碍者の夢の研究をしていて、その研究結果によると5歳までに失明した方は夢の中で視覚情報としての夢は見ないという結果が出ており、直接その先生とお会いして、今回の展覧会の話も前もってしていたのだが、おそらく現段階ではその先生の研究結果が正しいと昨日のトークをして思った。
それで思ったのが、なぜ私が間違ってしまったのかということである。なぜ映像が流れるという言葉を使ったのか。
視覚障害者の山口さんも来てもらっていて、山口さんは写真教室に毎回いるので、小林さんが夢に映像が流れてくるという話をしていたのも聞いていたので、二人でどうして間違えたのかトークの終わった後に話をした。おそらく写真教室にその時参加されていた方も夢の話を少し聞いていたと思うが。
山口さんと私の結論は「イメージ」や「映像」、「見る」などは全て先天盲の方は概念であって、その時に話している言葉や環境によって間違って認識をしてしまって、(例えば映像でないのにそれを‘映像’と思い込んでしまう可能性が高いから)それで夢に映像が流れてくると以前話していたのではということである。
他にも夢の中で形が出てくるということもそれは触った感触であり、視覚情報として出てくるのではないということである。晴眼者にとっては触った感触と音だけの夢などはないと思うので、「出てくる」という言葉自体がどうしても晴眼者にとっては‘視覚’要素の動詞であって、視覚障害者にとっては触覚による‘動詞’なので、どうしても「形が出てくる」といわれると視覚要素として間違ってしまう。
先天盲の方は中途失明の方よりもこの言葉による概念の世界が非常に深く広くそれを何らかの形で認識というか信じないと社会に適応できない。
例としては神様の例で、多くの人が神様に対して人間の形や顔のイメージを持っているし、神が存在するかどうかは分からないのだけれども、大多数の人が神の存在を信じ、神を中心に社会が回っている場合、その社会においては神を信じなければ自分自身を社会に適応させることが困難になってしまうような状態である。
先天盲の方はこの概念の世界があまりにも多く、どうしても私も視覚情報に頼った情報や認識の元で話をしてしまうので、視覚情報に基づいた言葉をつかって誘導していくような感じの会話となってしまい、夢に映像が出てくるとなったんじゃないかなというのが結論です。
「赤」という色の話が変わってしまったことや雨の色の話の時に「黒」に対してよくないイメージをもっていることなどは私達、晴眼者の社会のイメージを刷り込まれたからだとも思った。
最後の私がした美とは何かという答えで「秋のライトアップされた紅葉やその光」という答えも山口さんは今、色々とテレビなどで秋の紅葉が美しいと報道されていて、その影響からじゃないかなと言っていたが、私もそう思った。
ガーディアン・ガーデンで写真教室をした時に参加された先天盲の方に同じ夢の話した時に「どうして映像を見たことがない人が夢に映像が出て来た時に映像とわかるの?」といわれたが、その通りである。今回それが大いなる誤解だと分かったのだけれど、私は非常に色々と勉強になったし、もし今後同じように先天盲の方で夢では世界を見ることができるという人が出て来たら、そのことを信じたいと思います。
視覚障碍者の夢の研究をされてた先生にもベルクソンを引用していわれたけど、もし夢で世界を見れるという先天盲の人が現れても、否定するのではなく、それを受容し、そこからその人と共に世界を広げていくことの方が重要だということ。
写真展の時にも言われたけど、私自身がもっと視覚に頼らないようにしていかないとこの視覚障碍者の写真という活動のさらに深い所には行けないなぁと思った展覧会でした。
<追記>
Facebookでその後色々と皆さんがコメントくれたので、ここでもそれをイニシャルで追記させて頂きます。
(Nさん) 夢の話、なるほど そういうことだったんですね。雨の色の話、おもしろかったです!先天盲の方々に、晴眼者でいう視覚情報のことを、私たちは知りたがりますが、実は もっと広く深いところで 理解し、同じ世界を生きなきゃな と思いました(意味不明)
(尾崎) Nさん、昨日もありがとうございました。
そうなんですよ、それで視覚障碍者の方の世界を理解しようとして、色んな方と話をしたりするんですが、その時に使っている言葉自体が僕らが「見る」ことに よって生まれた言葉なので、その言葉で話をした場合、今回の先天盲の夢の話みたいに間違った認識が生じちゃうんだなぁと思いました。
「イメージ」という言葉自体も視覚から生まれた言葉なんじゃないかなぁと。
ただ、小林さんが尾崎カメラマンはイケメンっていったことは間違いじゃないと信じたいっすけどね(><)
(Sさん)我々の「見てる」世界が正しいとは限らないし、なんというか、ホントは言語体系が違うだけのようなものなのかもしれませんね。
(尾崎)そうなんですよ。
使っている言語は同じなんですけど、違う形で言葉の世界が成り立っているので、どうしても晴眼者と視覚障害者の間で差異が生まれてしまうんだと思います。
Sさんに言ったかもしれませんが、いったいどれくらいの先天盲の方が信号に対して「青」という言葉を使っているけど、実際見えているのは「緑」だと知っているかと考えてました。
今後の写真教室の時に聞いていこうと思ってます。
話変わるんですが、この前Sさんが言ってた視覚障害のある患者さんに対してのドクターの対応に関してネタを仕入れました。
癌ではなく、主に透析になるんですが、それ以外にもやってみたら興味深いものになるネタもあります。
本格的にやる際に紹介するんで、連絡下さい。
(Sさん)言語が違うと思考も変わりますからね。うーん。そしてその体系の違いも、概念上のものでしかないので確かめる術がなく、なんというかもどかしい。
なんと!ありがとうございます!、企画書書かにゃ…。
(Nさん)小林さんが尾崎カメラマンはイケメンっていったことは間違いじゃないと信じたいっすけどね(><)
素敵な奥様に真相を聞いてみてください(笑)
(尾崎)相棒の水谷豊を見ている時に、そんなことを聞いたら殺されます。
(Sさん)雪 が白いのは知っている と仰っていたのが印象に残っています。晴眼者の目で見て晴眼者の言葉で語った世界を教育されて社会に適応するのだなと。晴眼者も教 育されているからある一定の見え方に頼りがちですね。私達写真家はある一定の見えかたを突き抜けるものを作るのが仕事ですが、それを、視覚障害者の人とも 共有する方法が分かれば、すごいことになるんだろうなと思ったり思わなかったり。。文学の仕事かも知れませんが 今回もとても勉強になりました
(尾崎)この「知っている」を字面通り解釈してしまうと、今回私が勘違いしたように視覚障碍の方でも夢に映像が流れてくる方がいるとなってしまうんだと思います。
ちなみにまた長くなるんで書きませんが、「文学」で例えば小説などは視覚障碍者の方によって読み方が違います。清水さんが質問して頂いた「音楽」に関して二人の視覚障害者で違いがあったのと似たような感じです。
今後ともよろしくお願い致します。
(Kさん)ヘレン・ケラーのような方をゲストに呼べばもっといろんなことがわかるということですか?
(尾崎)私の写真教室に以前全く見えないというわけではないですが、ヘレンケラーのように耳が聞こえなくて、目も見えないという方が参加されたことがあります。
ヘレンケラーとは少し違いますが、日本で有名な方で福嶋智さんという方がいます。
日本だと約5000人の盲聾者がいると言われていて、本当はもっと多いと思います。多くの人が知的障碍の複合的な障碍のある方達です。
ヘレンケラーを呼んでも確かに色々わかるかもしれませんが、またちょっと違うかもしれないですね。
今回分かったのは私が使っているこの言葉がどれだけ視覚から成り立っているかということでした。ヘレンケラーの場合、それにさらに聴覚が加わり、視覚障害の方以上に概念の世界が広がる感じだと思います。
私達晴眼者から考えた場合、「神様」「悪魔」「天使」「おばけ」「幽霊」「UFO」などで埋め尽くされているような世界です。
(Kさん)丁寧な回答ありがとうございます。つまり、「目に見えない物は信じない」の反対ってかんじですね、映像は決して概念では無く、視覚として見えないものは、見えないだけってことですね?
(尾崎)そうっすね。目に見えないものでも信じていかないと、目が見える人が大多数の人の世界ではやっていけないという感じです。
極論を言うと、映像という言葉を実際はラジオのように音声だけなのに、「映像」という言葉を使っている方がいる感じです。
(Kさん)なるほど、わかりやすい。

by daisukeozaki
| 2013-12-01 18:39
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