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写真家・尾崎大輔のblog


by daisukeozaki
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タマフルリスナーで宇田丸のまねをして1週間に1度映画に関して何か書くことにしていこうと思います。
毎週、仕事関係で渋谷に行くので、対象は渋谷のTUTAYAで借りれるDVDで興味をもったもの、友達に勧められたもの等。それを見てそれをあーでもないこーでもないと書くつもりです。

栄えある1回目は森達也監督の「A」。
有名なのにまだ見たことがなかったので、これを機会に鑑賞。ある意味いきなり自分にとって語りやすいものを選んでしまった・・・・。
あらすじはオウム真理教の荒木浩広報副部長を中心に撮影されたドキュメンタリー映画。中心線としてはなぜ事件を起こしたのではなく、なぜ事件を起こしても彼ら、彼女らは教団に居続けるのかということ。

すぐに感じたのは監督とオウム信者の関係性である。他の大手メディアでは絶対に入れないようなところをまるで信者のように入っていけるその関係性を築くというのは僕にとっては尊敬の念さえ感じた。後で話すが、逆に大手マスコミの特ダネ欲しさの醜さが浮き彫りになってくる。そうやって撮られた修行やオウム、麻原を語るところ以外の信者の姿、本当に普通の、むしろ普通の人よりも思慮深い、無垢な人のように見えてしまう。むしろ実存ということで言えば、彼ら、彼女らは無垢で純粋な人間なのであろう。集団で集まって何か世間一般のことを話している姿はどこにでもいる青年達にしか見えない。
ただ、その本質の部分はやはり一般の道徳・倫理観とは別のものが働いていることは間違いない。麻原という絶対者を信仰し続けている点がもっとも顕著にそれを感じる。麻原が現代社会においての悪の行為を行ったにも関わらず。
映画とは少し離れてしまうが、生きている人間を神聖化し、絶対者としてしまう信仰を持つ宗教のおそろしさはここにある。そのカリスマ性をもつ絶対者が現在の倫理、道徳観から悪と考えられている行為を推奨した場合、社会からは阻害されてしまうことは確実である。絶対化しすぎてしまったため、フェスティンガーの認知的不協和ではないが、周りが見えなくなり、相対化できず信者はただ従うままになってしまった。輪廻の思想等を説一切有部のよって説明する信者を見ていると、私のような耳学問の人間でも論理的におかしいと思ってしまう箇所がたくさん見受けられてしまうのに。

私が信者に対してシンパシーを感じた部分もあった。この映画のメインテーマにあたる、なぜオウムに居続けるのかに関係する部分でもある。それは荒木広報副部長が語る部分で、オウムから離れられないのではなく、今の社会に戻れないと話すところである。私のような写真をやっている人達は共感する部分も多いと思うし、監督も同じようにシンパシーをその部分では感じたと思う。

僕の感じたここはもう少しという部分はマスコミの醜さ、目的に対して手段を選ばない警察に対する監督の嫌悪を過剰なまでにまじまじと感じさせる点。そこが少しクローズアップしすぎている感がある。メデァアのどうしようもなさは私自身共感を覚えるが。

最後の荒木広報副部長が田舎に一度帰り、祖母と会うシーン。その前には母親から元気でやっているのかと電話があったと話すシーンもある。撮影当時、彼が28歳で今の僕と年が1つしか変わらない。私と同じように家族を思い、自分自身と葛藤する人間がそこにいた。
映画の最初のカットが全ての象徴のように思えてならない。麻原の声が入ったテープを流そうとして、A面とB面を間違えてテープを入れてしまい、それを直すシーン。
僕らと信者の違いは所詮、A面とB面の違いぐらいしかないのかもしれない。

ネタバレやってすみません。
できるだけネタばれしないようにするつもりですが・・・・。


写真家なので、写真も見てほしいのでホームページのリンクも最後に付けておきます。よろしくです。→尾崎大輔ホームページ
# by daisukeozaki | 2010-10-25 21:28 | 映画 | Comments(0)

断食自殺

島田雅彦の対話集を読んでいて、30年ほど前に断食自殺を行った人がいることを知った。
何でもその自殺を行った手記は法医学書となっており、それを養老孟司からもらったらしい。
だいたいどれぐらいで出来るのかなというのが誰もが思う疑問であるが、70日間ぐらいかかったらしい。だいたいブッタやキリストも苦行をしており、断食を行っているが、その期間が40日前後。そこで彼らは何か悟ったのだ。
手記には死ぬ前ぐらいはやはりドーパミン系の脳内物質が分泌し気分よくなったということ。

話は変わるが、この前お坊さんの話を聞いていた時に、ある先輩がこういう話をしたという。
その日は朝から畑で仕事をし、滅多に誉めない老師からねぎらいの言葉をいただいた。その夜にいつも通りに座禅したところ、それがものすごく短く感じたという。毎回40分ぐらい座禅をし、最後に鐘がカン、カン、カンと三度なるのだが、その鐘の一番最初のカンという音をを聞いた時にまだ3分ぐらいしかたっていないかと思ったらしい。これは道元の言う只管打坐の境地であり、これが悟りではないかと思い、同じく座禅をしていた先輩にその話をしたらしい。
そしたら、先輩からそりゃ、お前、爆睡してたからなと言われた。
このお坊さんは爆睡と悟りを勘違いしたらしい。

これは実を言うとかなり恐ろしいことも含んでおり、本人が苦行をし悟ったとしても、客観的にみると脳内物質の分泌だけでしかないということ。もちろん、それ以外の可能性も多分にあるが。何でも3日間ぐらい寝ないで修行をすると、神様も見えるらしい。それによって見えた神様を信じてしまえば、他人は否定できない。
結局、自分自身を客観視することは難しい。


今回から写真家なので、写真も見てほしいのでホームページのリンクも最後に付けておきます。
よろしくです。→  尾崎大輔ホームページ
# by daisukeozaki | 2010-10-22 23:26 | Comments(0)

芸術とデザイン

少し前にある雑誌編集者と雑誌・広告などの仕事で撮影された写真は時間の風化に耐えれる芸術写真になるのか、それとも消費されるだけの写真であるのかという話になった。
基本、結局は写真であることにはかわりないのだから、そこに明確な線を引くべきではないと思う。仮に芸術ありきの写真は私は個人的に好きではないし、芸術至上主義に陥りかねない。
ただ、私が考えるのは中平卓馬ではないけど、そういった写真はデザインの一部であって、デザインはあくまでも何かの“飾り”だと思う。
それは商品の飾りであるのか、時代の飾りであるのかは知らない。

写真を取っ払って、芸術とデザインの違いはというと結局は“誰”のために作る、撮るものと”何”かのためにつくる、撮るもののちがいである。
この考えてみる見方は、私が好きな写真とそうでない写真を決める基準の一つでもある。
# by daisukeozaki | 2010-10-17 21:07 | Comments(0)

寺島進

最近、ゲオが100円レンタルをしているので、見たかった映画やもう一度見たい映画を借りまくっている。
昨日、北野武の「HANA-BI」を再度見た。実は1回目は途中で終了というか、イギリスにいた時に、テレビで日曜洋画劇場のようにやっていて、友達の家にいたので最後まで見れていなかった。
今回はじっくり最後まで鑑賞。めちゃくちゃおススメまでいかず、見てなかったら時間のあるとき見たらぐらいのおススメ度。
もちろん北野映画は僕も好きで、編集者に芸能人で撮影したい人とかいますか?とよく聞かれるのだが、そのときは北野武と答えている。(もし編集者でこのブログを見ていて、そういう機会があるならば是非よろしくです。)

DVDの中でメイキングシーンの撮影がおまけであり、それを見ていて寺島進がものすごく良かった。
北野武のアップのカットで、寺島進は完全にフレームアウトしているにも関わらず、必死で演技を続けていた。北野武の目線の先に寺島進がいた為でもあったろう。
昔、どっかの雑誌か何かで見たのだが、「その男、凶暴につき」の時に、寺島進がヤクザの群衆のエキストラで出演していたのだが、同じようにフレームアウトした状況にもかかわらず、彼だけが演技を続けていたらしい。それを北野武が見て、その後、北野映画の常連になったという話。

確かにあのがんばりを見たら、何か役を与えたくなる映画監督の気持ちもわかる。
ちなみに私の知り合いで、有名人とかに全く興味がないのに、寺島進だけは好きで、ミニシアター系の映画を見に行った時にたまたま寺島進もその映画を見に来ていて、映画が終わった後、サインをもらってきていた。
私自身は芸能人や著名人を撮影する機会も多いが、今までサインはさすがにもらったことがない。
サインをもらいたくなるぐらい好きな芸能人が一人ぐらいいてもいいんだけど・・・・。
# by daisukeozaki | 2010-10-13 20:50 | Comments(2)

ハイデッガーより

ハイデッガーの「存在と時間」の中で寓話を元に、神と人間の違いについて書かれている箇所がある。
その違いを“関心”としているのだが、それを拡大解釈し、興味、知への欲求とした場合、神は全てを知っているため、興味、関心をもたないと考えられる。

この解釈において、仮に神が存在するとしたならば、きっと退屈なんだろうと考えてしまう。結局はゲーテのファウストのように悪魔に魂を売りわたしてまでも何かを渇望しようとするであろう。
そうなった場合は、結局は何かに関心をもってしまう存在になる為、それは人間へと変わってしまう。

神は人間になりたいのではないだろうか。
# by daisukeozaki | 2010-10-09 21:58 | Comments(0)